サムスンのスタートアップ戦略から生まれた「WELT」が目指すもの
アジア圏で「スタートアップ」といえば、誰もが中国を挙げるだろう。しかし、中国同様に長きに渡って世界の工場として発展し、サムスンやLGといった巨大メーカーのお膝元でもある韓国からも、近年ハードウェアスタートアップが数多く誕生しているのはご存知だろうか。
AIと画像解析によって最適な化粧品をレコメンドするデバイスを開発するlululabがCES 2019でInnovation Awardsを受賞し、香港で開催された展示会「Startup Launchpad」でも多くの韓国スタートアップが出展し、ユニークなプロダクトを発表するなど、その存在感は年々強まっている。
その中心とも呼べる存在がサムスングループの社内インキュベーター「C.Lab」だ。社員から新規事業のアイデアを募り、成長性が見込まれるアイデアをプロジェクトとして採択、約1年かけてサムスン社内のリソースを活用しながら事業化を目指す。経営層が市場性を判断し、合格するとサムスンで事業化、もしくはスピンアウトしてスタートアップとして事業を開始する。
2012年に開始して、2019年までに誕生したプロジェクトは220件にものぼるという。先ほど紹介したlululabもC.Lab出身のスタートアップだ。日本でもソニーが同様の新規事業プロジェクト「Sony Seed Acceleration Program」(SAP)を2014年から運用しているが、サムスンもまた次の一手を積極的に模索しているようだ。C.Labにはどんな人たちが集まるのだろうか。
筆者は「C.Lab」の卒業生で、ヘルスケア系のスタートアップ「WELT」を取材する機会をソウルで得た。彼らの言葉からサムスン流のスタートアップ育成の実態を伺った。
CEOはヘルスケア部門出身の元医師
WELTはバックル部分にセンサーを搭載し、ペアリングしたスマートフォンで腹囲や歩数、消費カロリー、座っている時間などのデータを記録/閲覧できるデバイスだ。ウエストサイズの変化をリアルタイムで監視し、食べ過ぎたときにはスマートフォン用アプリでアラートが届く。
日本と韓国でクラウドファンディングを介して販売開始し、現在は国内外での販路開拓に加え、新たなモデルの開発に勤しんでいる。
サムスンの無線事業部ヘルスサービスグループにいたSean Kang氏が同僚のKen Roh氏と共に2014年にC.Labに応募したのを期にプロジェクト化したWELTだが、当初からベルト型のプロダクトを開発するつもりではなかったという。
「最初はポケモンGOのようなスマートフォン向けのゲームを開発しようと思って、Kenに声をかけましたが、すぐに諦めてハードウェアを使ったサービスの開発に切り替えました(笑)。既にある製品やアイデアを水平展開させて、ヘルスケアに応用できるビジネスを考えていた時にベルトに着目しました」
Kang氏はベルト型デバイスのアイデアを「C.Lab」に応募。年に1回の募集に1000件以上ものアイデアが集まり、採用率は1000分の1という狭き門をくぐって採択された。
プロジェクトに合格すると、それまで携わっていた業務から離れ、新規事業に100%コミットすることになる。1年という期間と数人の社員で1年間開発に集中できる程度の予算が与えられ、プロジェクトメンバーはサムスン社内から公募またはスカウトで集める。Kang氏C.Lab出身のエンジニアを集め、約1年をかけて試作開発に集中した。
WELTに製品化のゴーサインが出たきっかけは2016年1月に出展したCESだった。サムスンでは毎年C.Lab専用のブースをCESに出展、世界中のスタートアップが集まる「Eureka Park」に開発中のプロダクトを展示して市場の反応をリサーチしているという。
出展によって、多くのテック系メディアや大手新聞に紹介されたことが功を奏し、同じ年の秋には正式に事業化が決定。創業時にサムスンが資本金の10%を出資して、ハードウェアスタートアップとして独立することになった。
無料開放のオープン戦略とCEOでもアクセスできないクローズ戦略
展示用の試作品開発に一区切りがつき、量産品の開発にシフトしてからもサムスンのサポートの手厚さは変わらないという。試作開発の段階からサムスンと取引先実績のある工場と開発を進めていたので、量産にもスムーズに移行できたことは「量産の壁」に苦しむスタートアップにとって大きな利点だったという。
「ソフトウェアであれば販売後にバグが見つかっても、インターネット経由で修正プログラムを配布することで改善できますが、ハードウェア部分は失敗できないし、開発自体にも莫大な費用がかかる。量産化設計の難しさを考えると、サムスンという大企業の支援があったのは本当に心強かった」(Kang氏)
最も苦労したのはバックル部分に複数のセンサーやバッテリーを収めることだったという。通信やセンシングを同時に行うためバッテリーの消耗が激しく、初期段階のころは1日も持たなかったという。
その際、C.Labに所属するサムスン社内から選ばれたメンターたちがWELTの開発をサポートし、サムスン流の厳しい品質検証と試作を繰り返した結果、現在は1度の充電で1カ月以上使用できるようになっている。
「品質検証のプロセスに関してはサムスンの中でも限られた人間しかアクセスできず、どのように検証をしているのか、CEOの私でも知ることはできません。しかし、大企業の品質レベルにかなう品質検証をパスしたことで、自信を持てる品質で製品化できたことは非常に大きなアドバンテージになりました」(Kang氏)
製品開発の神髄は明かさない一方で、サムスンはオープンな戦略も持ち合わせている。
「サムスンではソウル大学で製品開発に関する講座を無料で実施しています。受講する生徒にはサムスンやC.Labが開発をサポートするプランもあり、WELTもメンターとして講座に協力しています」(Kang氏)
このプログラムは「C.Lab outside」というかたちで運営していて、講座を通じてプログラムに採択されると、C.Labに採択された社内プロジェクト同様のサポートが受けられるという。
ベルトを通じて目指すのは、デジタル時代の医薬メーカー
現在、WELTは女性向けのモデルや、転倒防止機能などを追加した高齢者向けモデルの開発を進めながら、アプリの開発に注力しているという。高齢者モデルについては米国コーネル大学とソウル市内の大学病院と連携し、500人規模の臨床実験を進めている。CES 2019では開発中のモデルを出展し、2020年以降の製品化を目指しているという。
海外のアパレルメーカーとの提携も視野に入れているというKang氏だが、最終的に目指しているのはベルト専業のメーカーではないと力説する。
「我々が目指しているのはデジタルメディスンメーカーで、健康状態のアドバイスだけでなく、治療の領域までサービスを拡充したいと考えています」(Kang氏)
デジタルメディスンとは医薬品と医療機器を組み合わせたもので、製薬業界でもホットなトピックだ。2015年に大塚製薬とアメリカのProteus Digital Healthが共同開発した極小センサー入りの製剤「Abilify MyCite」が代表的な製品で、人体に影響のないセンサーが組み込まれた医薬品を服用することで、スマートフォンやタブレット端末を通じて薬の服用状況を正しく把握できるという利点がある。
ベルト型のデバイスが、デジタル新薬としてどのように機能するのか、Kang氏は詳細を明かさなかったが、数年以内にはWELTからデジタル新薬を発表し、米国FDAで医療機器としての認証を取得する計画があるという。おそらく製薬会社とタッグを組み、WELTが開発するセンサー技術を組み合わせた新薬を目指していると推測される。
「ベルトだけを作るのであれば、サムスンから独立してスタートアップになるという選択肢は無かったでしょう。自分たちの技術を有効に活用できるのであれば、自社生産にこだわらず、有望なパートナーと新しいプロダクトを作りたいと考えています」
独自のセンシング技術をもとに、医薬品のIoT化にシフトしようとするWELT。そして、その急成長を支援するサムスンのC.Labから日本のメーカーが学ぶべきことは決して少なくないだろう。