学研大人の科学マガジン 小美濃芳喜インタビュー
大人の科学のふろく開発者は、メカ、エレキ、ソフト、なんでもござれのスーパーエンジニア!
その頃世界各地で挑戦が始まったのが人力飛行機の製作。グライダーのような滑空飛行ではなく、ペダルでプロペラを回す飛行機だ。今では琵琶湖で開催される「鳥人間コンテスト」などでおなじみの飛行機だが、その製作が本格化したのは意外なことに1960年代以降。日本大学の学生も人力飛行機の製作に取り組み、小美濃さんが4年生の時には「ストークB号」で当時の世界記録を樹立した。その後も、後輩やOBたちとの交流は絶えることなく続いている。また、昨今隆盛しているウルトラライトプレーン(※2)の愛好家からの技術面での相談に応えるなど、現在も飛行機の世界に関わり続けている。
「飛行機バカだからずーっと飛行機をやっていて、いまだにグライダーや軽飛行機に乗ったりしている。(機体認証を得るための機体強度の)検査方法は経験がないとわからないことが多いから、相談にのったりしているよ」
卒業後はアメリカの半導体メーカーでものづくり
こうして、学生時代にさまざまなものづくりに挑戦した小美濃さん。しかし就職したのは、一見これまでとは違う畑の世界。小美濃さんは単身アメリカに渡り、半導体の開発/製造などで当時世界最先端を行くメーカーだったRCA社に就職したのだ。
その頃はアマチュア無線(CB)全盛期で、電子部品も真空管からディスクリート部品、そしてICチップへと、急速に進化していた。そこで小美濃さんが担当したのは、これまた当時急速に普及し始めたカーステレオの製品開発。日進月歩の電子部品や回路設計の知識はもとより、オーディオシステム全体を見渡す知識がなければその製品開発はおぼつかない。小美濃さんは現場に直接飛び込むことで、それらの知識を急速に吸収していった。この一見大胆に見える行動も、その動機と発端は、ヨットや飛行機などに取り組んだ乗り物作りにあったという。
「飛行機でも必ず欲しいのはスピードメーターとか、いわゆる計器類。でも高いものだし簡単には買えない。だから自分で作ろうと。そしたらだんだん電装系がわかるようになってきたね。スタートはそこだね」
帰国後に取り組んだ自転車製作
帰国後は、平坦地走行の速度を競う競技用自転車(スーパーサイクル)の製作にも取り組み、こちらも日本記録を達成した。アメリカなら計測に必要な平坦な土地はいくらでもある。しかし、日本では滑走路以外にそのような場所はないため、滑走路を使うという点で、過去に取り組んでいた人力飛行機との共通点も多い。また、同好家同士で交流を図ろうにも国内だけではその数は限られ、結果、情報や記録を競うライバルを海外に求めていく、といった点もよく似ている。それ以外にも、重要な共通点があった。