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アジアのMakers by 高須正和

20万台のマイコンボードを配布したタイ政府と、プログラミング教育のジレンマ

プログラミング教育はどの国でも大きなテーマになっているなかで、タイは大きな投資を行った。イギリスの公共放送局BBCが中心となって開発した「micro:bit」の例にならい、自国でプログラミング教育用のマイコンボードを開発し、全国の中学・高校に20万台を配布した。

一方で、そうしたプログラミング教育を教育全体のどこに位置づけるか、トレンドの移り変わりにどう対応するかなど、課題も多い。

プログラミング教育とマイコンボード

2014年、ホワイトハウスで開かれたMaker Faireで、オバマ大統領は教育について多くの言葉を費やした。子供達のプロジェクトをいくつもホワイトハウスで展示し、次世代のアメリカを担う施設として全国の中学校にメイカースペースを作ると約束した。その後共和党のトランプ大統領に政権は移り、ホワイトハウスのMaker Faireはなくなったが、プログラミング教育への支援は変わっていない。

イギリスの公共放送BBCが教育向けのマイコンボードmicro:bitを発表するなど、電子工作と連携したプログラミング教育は世界的なトレンドがある。IoTはどんな産業でも重要な要素なので、電子工作を含めたプログラミング教育は、年々拡大する一方だ。新しい教育ツールを発表するスタートアップも多い。ArduinoやRaspberry Piなどの有名なマイコンボードも、年々教育プログラムとの連携を強化している。

BBCが中心となって開発し、世界各地のプログラミング教育で採用されているmicro:bit。  (写真:スイッチサイエンス) BBCが中心となって開発し、世界各地のプログラミング教育で採用されているmicro:bit。 (写真:スイッチサイエンス)

Arduinoはもともと「技術者ではない人もデジタルにハードウェアを扱えること」を目的に開発されたものだ。その思想から、結果的に子どもたちの教育でも多く使われるようになった。

2015年にイギリスで発表されたmicro:bitはさらにビギナー向けで、最初から子どもの教育のために設計されている。技術用語に限らず難しい言葉を使わない、キーボードのミスタイプを避けられるブロック型のビジュアルプログラミング環境「MakeCode」を採用するなど、より「子どもにとって最初のマイコン環境」を意識して開発されている。

micro:bitのプログラミング環境MakeCode。 micro:bitのプログラミング環境MakeCode。

BBCのなかの教育テレビ部門BBC LearningがMicrosoftやARM、サムソンなどの各社と協力して教育コンテンツ、開発環境、ソフトウェアを作り、イギリス中の11~12歳の子どもに向けて、100万台が無償配布された。その後独立した組織となり、市販されるようになったmicro:bitは、世界各国のプログラミング教育に採用されている。マイクロソフトが開発したプログラミング環境のMakeCodeも、現在はmicro:bitの他にもさまざまなハードウェアに対応している。

独自の教育プログラムを開発したタイ政府

タイ政府はmicro:bitの成功を参考に、自国で教育プラットフォームの整備を始めた。「KidBright」と呼ばれるこのプラットフォームは、NSTDA(National Science and Technology Development Agency:タイ国立科学技術開発庁)というタイ政府の機関が教育カリキュラムや開発環境を整備している。イギリスでいうBBCの役割だ。

KidBrightのビデオ。ブロック形式でWebベースの開発環境を採用している。

ハードウェアの製造は、この連載でも「タイ政府が教育にマイコンボードを大量採用 バンコクのGravitech」などで紹介してきた、Gravitechが請け負っている。2018年の時点で、20万台のKidBrightを配布したという、とても大規模なプロジェクトだ。

micro:bitの対象年齢は11~12歳で、イギリス政府が無償配布したのもその年代だが、KidBrightはもう少し高い年齢、高校生ぐらいまでを対象としている。micro:bitとは異なりESP32をCPUに採用したKidBrightは、Wi-Fi経由でサーバにデータを送るようなIoT開発のプロトタイプにも使える。NSTDAも、クラウドにデータを送るといった機能に重点を置いており、NSTDAの下部組織であるNECTEC(National Electronics and Computer Technology Center:タイ国立電子コンピューター技術研究センター)がNETPIEというクラウド環境も整備している。

バンコク市内の情報をKidBrightからアップロードするプロジェクト。 バンコク市内の情報をKidBrightからアップロードするプロジェクト。

プログラミング教育と既存の教科のジレンマ

NSTDAはタイ教育省の下部組織だが、担当しているのはプログラミングコンテストやロボコンの運営など、「学校の科目の外側」だ。タイ政府はMakerムーブメントへのコミットを深めていて、全国の中学・高校に3Dプリンターやレーザーカッターなどを備えたFabLab/メイカースペースのような工作工房を作ろうとしているが、そのプロジェクトもNSTDAが中心になって進めている。KidBrightは、そうした学内メイカースペースを利用する生徒達に対して配布された。

一方でジレンマもある。タイは日本と同じように、教育内容を政府が決定する。州ごとや学校ごとにかなり異なった教育が行われているアメリカと違い、日本の指導要領のようなモデルカリキュラムにすべての学校が準拠する。そのカリキュラムは、18歳の時に行われるO-Net(Ordinary National Education Test:タイ政府による統一学力テスト)に準拠して決められている。O-Netは日本のセンター試験と同様に国語、英語、数学、科学などで構成され、そのなかにコンピューターやIoTは含まれていない。

タイでも大学進学へのプレッシャーは強く、試験科目にないMaker活動に取り組むのは、あくまで一部の生徒だけだ。せっかく配布した20万台のKidBrightも、半分近くが使われずに終わっているという。

プラットフォームの移り変わりに耐えられるか

また、micro:bitが対象にしているような基本的なコンピューターサイエンスに比べて、IoTなどの先進的なサービスは進化も移り変わりも速い。おそらく10年後も僕たちは、プログラムを学ぶときに“Hello, World!”から始めているだろうが、無線通信の規格やクラウドとやりとりするAPIは今とまったく違ったものになっているだろう。KidBrightが開発された2017~18年以降、タイ政府はAIにも大きな期待をしている。それに合わせてKidBrightも、クラウド側で音声認識などのAI処理を行うKidBright AIというプラットフォームが追加されている。こちらのAI側は、ボードとしてのKidBrightがなくてもパソコンだけでかなりの機能が使えるものだ。

現在のKidBrightトップページは、AI処理との2部構成になっている。 現在のKidBrightトップページは、AI処理との2部構成になっている。

年度ごとにカリキュラムを立てる学校と、常に進化する技術の間のジレンマもある。Webベースで動作するKidBright開発環境を、有志が勝手にオープンソース化してしまった「KB-IDE」という環境も登場した。これはKidBrightそっくりのインターフェースで、ArduinoやRaspberry Piなどにも対応でき、学校関係者以外のギークにはこちらのほうが使われている。また、KidBrightボードそのものも、オープンソースハードウェア化されたOpenKBと呼ばれるいくつかのボードが存在する。

KidBrightのコピーとも言えるKB-IDE。 KidBrightのコピーとも言えるKB-IDE。
KidBrightハードウェアをオープンソース化したOpenKB。 KidBrightハードウェアをオープンソース化したOpenKB。

タイのプロジェクトから僕らが学べること

バンコクやチェンマイのMaker Faireに行くと、KidBrightベースのプロジェクトも、OpenKBほかKBベースのものも両方出展されている。僕がここ数年バンコクやチェンマイのMakerイベントを見るかぎり、どこか一つに収斂(しゅうれん)することはなさそうだ。Maker Faireバンコクの初代チェアマンで、NSTDA職員としてKidBright開発を主導していたDr.Mornは、「KB-IDEはオープンソースなのだから、KidBrightをそちらにマージして、NSTDAがオープンソースプロジェクトのまとめ役をやる形で一緒に発展していくのが望ましい」と語っているが、彼も今はNSTDAではない仕事をしていて、KidBrightからは離れている。

とはいえ、20万台という大規模な配布が、こうした波及効果を生み出したのは間違いない。今のところOpenKBを開発しているのもタイの企業だが、KB-IDE、OpenKBはオープンソースという特性から、タイ以外の東南アジアにも広がりを見せている。もともとタイ国民の教育用として作られたものなので、どこまで広がるかは分からない。だが、それでいうならArduinoはオープンソースとなったことで、当初の目的をはるかに超えてコミュニティを作っている。オープンソースになることはそういう可能性を秘めている。

大規模な起爆剤としてのボード配布を行ったこと、そこからオープンソースのプロジェクトが派生してさまざまな発展を遂げていることは、日本のプログラミング教育を考える上で多くのヒントになる。

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