ソニー元エンジニア金子金次氏インタビュー
かつてソニーもスタートアップだった——当時を知るエンジニアが見たものづくり精神
2016年はソニー創業70年、東京・銀座のソニービル開館50年という節目の年だった。
終戦のわずか9カ月後にスタートし、旧社名の「東京通信工業」(以下 東通工)創業からベンチャー精神でさまざまな製品を生み出した。戦後復興期、高度経済成長期を通して次々と新しい製品にチャレンジし、どのようにベンチャーから現在の「ソニー」へと上り詰めてきたのだろうか。
歴史を創った名機がパネルや映像資料と共に展示された「ソニー歴史資料館」で、元ソニーのエンジニア、金子金次氏にお話を伺った。
(撮影:水戸秀一)
若い人が活躍できる会社
——1965年、ソニーへ転職したきっかけは?
金子:NHKでは当時、テレビ放送の機材を国産化するための研究が進められ、メーカーとの技術協力に力を入れていました。
既に退官された島茂雄研究所長が、同窓生であるソニーの井深大さんに請われ技術担当常務として業務用機器を統括され、研究所で先輩として指導してくれた山縣研二さんもソニーでカラーテレビカメラの開発をしており、あるとき「君のような若者はソニーで働きなさい!」と誘っていただいたのが転職のきっかけとなりました。
ソニーが驚異的に小型のVTR「PV-100」を製品化して注目されていた時です。私も「S社の秘密」(田口憲一著、新潮社)を読んで、ソニーとはどんな会社か知りたかった時でもありました。私の担当はNHKが放送に使用するための信頼性確立に必要なレポート作りから始まり、ニュース取材用の小型録画中継車を設計するところからでした。
当時は、若い者が活躍できるような時代ではありませんでした。しかし、ソニーは若い者の意見を惜しみなく取り入れていました。
製品を知恵や工夫でリードし、自分のアイデアが採用されればボーナスまで付与されました。社員同士も家族のように働ける環境でした。
もちろん叱咤激励はありますが、言いたいことを言い合いながら新しい製品の開発に挑戦ができた。東通工の設立趣意書にも「社員が仕事をすることに喜びを感じるような、楽しくて仕方がないような活気ある職場づくり」と書かれています。
(1965年に)ソニーに転職して第2特機部というプロ用放送業務用システムを開発する事業部に配属されました。
創業者たちの原点はプロ用の機器を作っていたことから、ベースには業務用途というものづくり精神が存在していました。技術はもちろん、環境も魅力のひとつでした。