失敗や未熟を全肯定——「技術力の低い人限定ロボコン」「雑に作る」石川大樹の生き方
読み物サイト「デイリーポータルZ」の編集・ライターの石川大樹(いしかわだいじゅ)さんは、工作の世界に新しい価値観を植え付けた。趣味の世界でも完成度や技術力への意識が高くなりがちな日本において、「ヘボい」「頭が悪い」「雑」であることを肯定的に捉える姿勢は、多様性を重視する現代社会にも通じるものがある。
石川さんが考案した技術力が低い人限定ロボコン(通称:へボコン)は、日本だけでなく海外にも飛び火。コロナ禍を経た現在も世界中のメイカースペースで、へボコンが開催されているという。
そんな石川さんとギャル電きょうこさん、藤原麻里菜さんの共著による書籍『雑に作る—電子工作で好きなものを作る近道集』(オライリー・ジャパン)が2023年10月に出版された。技術書ど真ん中のオライリーの書籍としては異質なタイトルだが、ものづくりに対するハードルを下げることで、アイデアから形にするスキルを養うことを丁寧に説いている。大手ECサイトでも売れ筋ランキング上位に入るなど、多くの人からの支持がうかがえる。
石川さんはいかにして「へボコン」や「雑に作る」発想を考案し、広めたのか——。その半生をインタビューした。(撮影:宮本七生)
黙々作るのが好きだった子ども時代
——石川さんは1980年生まれで岐阜県出身ですよね。
生まれたのは母方の実家のある古川町(現・飛騨市)で、小学校5年生までは岐阜市に、小6から高校卒業までは本巣市に住んでいました。家族は4人家族で父と母、3歳年下の妹がいます。
父は輸送会社で大型トレーラーのドライバーでしたが、DIYが好きで、窓からペットが出入りできる小さな扉とか、いろいろ作っていたのを覚えています。僕自身も物心がつく前から手を動かすことが好きで、親から買い与えられたダイヤブロックを工夫して動く仕掛けを作ったり、バラバラに分解したゾイド同士を組み合わせて遊んだり(笑)。母が幼稚園にお迎えに行くと、先生から「今日はこんなすごいものを作ったんですよ」と、しょっちゅう言われるタイプの子どもでした。
小学校に進むと市が主催する夏休みの自由工作コンテストに毎年応募してました。優秀作品が岐阜市役所に展示されるコンテストで、一番手が込んでた作品でいうと、発泡スチロールの箱の中にモーターとクランク機構を入れて、棒でつながった人形が動くような仕掛けを作ってましたね。
テクノロジーに触れた最初のきっかけは、小2で買ってもらったMSX※です。従兄弟がゲーム機として持っていて、触らせてもらったのがきっかけかな。うちはファミコン(ファミリーコンピューター)がなかったので、親にねだったらゲームソフトと併せて買ってくれたんですよね。でも、プログラミングできることを知ってからは、ゲームよりもプログラミングに夢中になってました。まずは雑誌や本に書いてあるソースコードを見よう見まねで打ち込んでみて。
※MSX…1980年代にマイクロソフトとアスキー(現・角川アスキー総合研究所)によって提唱されたパソコンの共通規格。同規格に準拠していれば、メーカーや機種を問わずソフト/ハードに互換性があり、各メーカー独自の専用設計が当たり前だった当時としては画期的なものだった。「一家に一台」のパソコンを目指し、対応機種の価格も安く抑えられていた。
——「写経」ってやつですよね(笑)。僕も学校のクラブ活動でやってました。
それで岐阜市に引っ越す小5あたりでMSXを卒業して、PC-9800シリーズ※を買ってもらったんです。それを知った転校先の友達2人が興味を持ってPC-9800を買い、学校が終わったら3人の家をローテーションして遊ぶ日々が始まりました。
——当時はノートPCも普及してないしインターネットもないから、今のようにオンラインで遊ぶこともできませんよね。
フロッピーディスクを持って誰かの家に集合して、誰かがパソコンで遊んでいる間、残りの2人は漫画を読んでましたね。プログラミングは僕しかやってなくて、3人ではまったのは「RPGツクール」※というゲーム制作ツールでした。高校の進学先が3人ともバラバラになるまでは、ずっとはまってました。中学は部活動が必須なので、消去法的に入った美術部で時間を潰した後に、RPGツクールをやってましたね。でも、最後まで完成させるほどの根気はなくて、途中まで作っては飽きてやりなおしを繰り返していて……。
※PC-9800シリーズ…NECが1982年から2003年まで日本で製造・販売していた独自企画のパソコン。ビジネス用途に限らず個人のホビーユースでも普及した。
※RPGツクール…RPGゲームを自分で設計できる制作ソフト。ゲームで使用される処理をプリセットした命令や画像制作ツール、音楽などを組み合わせてオリジナルのRPGが制作できる。
——その当時から「雑に作る」だったんですね(笑)
いつも同時進行で複数のゲームを進めて、いろんなシナリオや新しい要素を自分なりに構想するんですけど、ドット絵を作るあたりで気持ちが次のゲームに移ってしまい、ぜんぜん完成しませんでしたね(笑)。でも、これからすごいゲームができるというワクワク感に夢中になって、3シリーズぐらい買ってました。
パソコンの中で作ることに夢中だった10代
——そこから高校に進学して、RPGツクールブームも落ち着いたわけですよね。
高校に入った途端に音楽熱が高まりました。中学のころから田んぼばかりの田舎で小沢健二とか聞いていたのですが、高校で吹奏楽部に入って、さらに入学祝いにDTM(パソコンによる音楽制作)の機材を買ってもらって、一気にテクノにはまりました。その当時はUnderworld※の「Born Slippy」とか、ケン・イシイ※の「Extra」が盛り上がっていた時期で——、といっても、岐阜では全く盛り上がってなかったんですけどね。
※Underworld…90年代を代表するイギリス出身の電子音楽グループ。現在も第一線で活動中。
※ケン・イシイ…日本のテクノDJ、ミュージシャン。イギリスでブレイクした後に、逆輸入される形で日本のメディアに紹介された。
——どちらも1995年リリースの名曲です。石川さんが15歳の頃ですね。
ああいう音楽をやりたかったんですけど、シンセサイザーは高くて手が出なかったので、GM音源※を駆使して、それっぽい音楽を作ってました。ドラムの音源を2オクターブぐらい下げて、テクノっぽいビートにしたり。作った音楽をひたすらためて、たまに友達に聞かせてみるんですけど、全く反応もなくて。その頃から、田舎に住んでいることのフラストレーションがたまっていったんです。
※GM音源…General MIDI(ジェネラル・ミディ)の略で、MIDI音源の互換性を重視して作られた規格。
——僕も高校時代は地方に住んでましたが、全く同じ感じでしたよ。あの当時はSNSもないから、孤独な高校生がたくさんいたと思います(笑)。それで大学は大阪に?
大阪大学の人間科学部に進学しました。社会学や心理学から生物学まで幅広くカバーしている学部で、音響心理学に関するコースに興味を持って受験しました。大学に入ってからも、DTM熱は続いていて、CGを描いたり、DTMとかDJをする人が集まるサークルに入ったりしたんですけど、みんな家で制作するのでパリピとは一切無縁なところで、深夜にインターネット上に集まってチャットばかりしてました。文化祭でも、部屋を閉め切って真っ暗な部屋の中で音楽を流したりして……。誰も入ってこなかった気がします。
——小学5年の頃から根っこの部分は、何も変わってないですね(笑)。
わかりやすい作品を作ろうというサービス精神もなく、自分の好きなものを延々と作り続ける生活でしたね。各自が作ったものを持ち寄って見せ合うのが、自分の性に合ってました。振り返ると、一人でちまちま作るのが好きなんですよね。そういう人が集まるサークルだったのかなと思います。
大学は楽しかったですね。今になって、大学の先生とか研究者の方と面識ができたりするんですけど、大学時代の話は絶対にしないと決めてます。なぜかというと、全く勉強してなかったので(笑)。
——一切勉強せず、DTMに没頭してたんですね。そこから社会人になるわけですよね?
「パソコンをずっと触ってきたから、SEとか向いてるんだろうな」と思ってましたが、就職氷河期だったので全然内定が出ませんでしたね……。最終的にはNECソフト(現:NECソリューションイノベータ)という会社に入ることができて、大学病院で使うシステム開発とかやってました。
ソースコードがパソコンの外に飛び出した
——その頃にデイリーポータルZ(以下、DPZ)にも寄稿し始めたんですか?
その前に大学生の頃からテキストサイト※をやってたんですよね。昔から文章を書くのが好きで、テキストサイトでものすごい量の文章を書いてたので、それが今に生きている気がします。インターネットが自由に使えるようになったタイミングだったこともあり、大学ではチャットとテキストサイトとDTMに明け暮れてましたね。
それで、一緒に読み物サイトを運営していた大学時代の友人が上京することになったときに、また何か一緒にやろうよって話になって、新しく読み物サイトを立ち上げたんです。それが「残業後にハワイに行く航空便専用の旅行会社が発行している機内誌」っていうコンセプトのサイトで、サイト名は「残業」と「ハワイ」をつなげて「ざんはわ」。
——めちゃくちゃコンセプチュアルじゃないですか(笑)。
そのサイトを一緒に運営していたのが、後にDPZにも合流する大北栄人※で、週1更新でしばらく続けていました。サイトを更新するシステムもゼロから自分が開発して、横にスクロールすると飛行機が画面奥から迫ってくるような仕掛けでした。
※テキストサイト…文章を中心とした個人運営のウェブサイト。ブログやSNSが登場する以前の個人による情報発信手段であり、日記やエッセイ、面白ネタなどが中心だった。
※ちなみに大北さんはfabcrossでも、この辺の動画制作を担当しています。もちろん、石川さんからの紹介で。
——長い間ソロ作業だった時代から、ようやく共同作業時代に突入ですね。
その頃、DPZで読者からの投稿を受け付ける枠があって、何度か採用されたのをきっかけに、ライターとして誘われたんです。社会人3年目に入る頃だったと思います。それで昼間はSEとして働きながら、空いた時間にざんはわとDPZの記事を書くという生活が始まったんです。そうこうしている内にだんだんと仕事にやりがいを感じられなくなって、そのことを林(DPZ編集長の林雄司さん)に相談したら、「産休に入る社員がいるから、うちに来ないか」って誘われて、当時DPZ編集部のあったニフティに転職したんです。それが社会人4年目の2007年。
——そこから現在に至るまでの16年間、ずっとウェブメディア編集者としてのキャリアが続いているんですね。工作ネタをやるようになったのは、DPZに入ってからですか?
そうですね。直接のきっかけになったのはライターの乙幡啓子さんですね。一時期Arduinoを使った電子工作の作品を発表していて、すごく面白いって思ったんです。僕も元々プログラムはある程度書いてたけど、パソコンの中で書いたものが現実世界に飛び出して動き出すっていうのに衝撃を受けたんですよね。
それでMake:Tokyo MeetingにDPZとして出展することになって、最初に制作したのが鉛筆を使った電子オルゴール。その時の記事も残ってるんです。
※Make:Tokyo Meeting…Maker Faire Tokyoの前身となるイベント。イベントの立ち上げからMaker Faire Tokyoに発展した経緯については、fabcrossでも2015年に取材しています。
——床に部品を散らかして、頭を抱えている様子に若さを感じますね(笑)。
で、今日その作品も実際に持ってきたんですけど……。
今振り返ると、最初からよくこんな凝ったものを作ったなって思うんですけど、Make: Tokyo Meeting 03(2009年開催)に出したら、拙いながらもたくさんの人に面白がられたんですね。それで一気に気を良くして、電子工作の世界にのめり込みました。
寝ても覚めても電子工作の日々
——それまでパソコンの中で完結していた石川さんとしては、動く仕掛けがある電子工作自体も新しかったわけですよね。何より周りが面白がってくれたのが、高校時代のDTMとは正反対だし。
それまでは、電子工作とかMaker Faireのような世界に入りたくてもできなかったというわけではなく、そんな世界があるということすら想像したこともありませんでした。それこそ、プログラミングしたものが画面から出てくるなんて、考えたこともありませんでした。
それ以降は電子工作にかける時間も劇的に増えました。趣味の要素もありましたが、DPZをやってると仕事でも電子工作が使えるんですよね。記事でネタに困ったら、何か作ってみるかみたいなノリで手を動かすケースも増えて、いろいろなことが一気にできるようになりましたね。
——仕事のように必要に迫られると、覚えるスピードも劇的に速くなりますよね。
その頃の作品がそのまま家の隅に袋ごとしまってあったので持ってきました。
——そういえば、fabcrossがスタートする前、僕がまだメイテックグループの「メイテックネクスト」にいたとき※にDPZとライブドアニュースに記事広告をお願いしたこともありました。この頃から面白い工作がネット上でバズる現象が出始めましたよね。
電子工作を始めたばかりの頃と今との違いでいうと、SNSの存在感が圧倒的に違いますよね。僕が始めた2007年ごろはTwitter(現:X)も出始めでユーザー数が少なかったし、作ったものをカジュアルに共有できる場所もなかった。自分のサイトに作品を載せても見てくれるとは限らないし、ハードルが高かった印象があります。それがSNSの登場によって、自然に知り合いに見せられたり、「バズる」なんて社会現象も生まれてきたりして、面白いものを作れば多くの人に見てもらえる環境ができたことは大きかったですね。
——DPZでも石川さんだけでなく、工作記事を書くライターさんが増えましたよね。
取材記事は取材先への原稿確認依頼とか、自分たち以外の人が関わるので、書いたものをすぐに出すことができません。だけど、工作記事は自分が手を動かすだけで記事にできちゃうので、使い勝手がいいというメリットがありますね。
※完全に蛇足ですが、筆者はメイテックネクストでデジタルマーケティングに従事した後に、当サイトを運営するメイテックに出向。fabcrossの企画・立ち上げに関わり、2017年まで副編集長を拝命していました。
へボコンが誕生した背景
——こうして工作記事のスペシャリストになった石川さんが、「へボコン」を企画した経緯について教えてください。
最初のきっかけまでさかのぼると、作ってみたけど完成しなかった失敗工作系の記事が好きなんですね。失敗作って焦りとか「あ、ここ妥協したな」っていう人間の弱さが垣間見える要素があるんですよね。そんな失敗した作品ばかりを集めて展示会をやりたいと個人ブログで呼びかけたんです。その記事自体はウケたんですけど、失敗作って保管されてなくて、部品取りとかに使っちゃうから手元に残らないんですよね。結局、応募は集まらなくて、企画は一度頓挫しました。
その一方で、とある女性雑誌でDPZの工作ライターが取材を受ける機会があって、その見出しに「DIYギャグ男子」っていうパワーワードがあって気に入ったんです。それがきっかけになって、「DIYギャグ研究」というコミュニティをFacebook上に立ち上げました。
——僕もチェックしてますが、初期はいわゆる面白系の工作ネタをシェアしてましたね。
そのコミュニティの中で「ちゃんと動かないロボットだけのロボコンをやりたい」って話が出て、最初に考案した失敗作だけの展示会のアイデアと合体して企画したのが「へボコン」です。当初は公民館を借りて5人ぐらいでやろうと思って、個人のブログで呼びかけたら、40人ぐらい応募があって、僕一人ではさばけない規模になってしまったので、後からDPZのイベントとして開催が決まりました。
——僕も第1回を取材しました。チケットも即完売で、当日は全国紙やTV局も取材に来ていたし、ものすごい熱量でしたよね。最後に集合写真を撮影した際、参加者が一同に誇らしそうな表情をしていたのが印象的でした。
企画段階では完全にジョークとしてのノリでした。でも、開催後にいろんな人の話を聞くにつれて、新しい価値観を作っていたことに気づかされました。思えば、このイベントが大きなターニングポイントだったと思います。その年の文化庁メディア芸術祭で審査委員会推薦作品に選ばれたり、海外の大手ニュースサイトにも取り上げられたりしたのを機に「自分たちの国でもへボコンをやりたい」というオファーが来るようになったんです。
ヘボコンはオープンソース
——急に海外まで広がりましたね。どういう人たちが海外ではへボコンを運営してるんですか?
一番多いのはメイカースペースの運営者でしたね。ものづくりと接点のない人に自分たちを認知してもらうきっかけにしたいという思惑があったようです。あとは科学館や学校が教育目的で開催したり、日本発の風変わりなカルチャーを紹介する目的のケースもあったりしましたね。
ライセンス料とかお金を取るつもりもなかったし、勝手にやってもらって広がる方が面白いと思ったので、どんどんやってもらう方針で対応してたら、問い合わせがものすごい量になりました。さすがに個別対応しきれなくなったので、主催者向けのガイドやルールをまとめたドキュメントを英語で作成して、希望者に配布するようにしています。
——国内でもいろんな場所で開催していますし、教育系の文脈でもヘボコンを取り入れる学校があったようですね。
プログラミング教育の一環で、micro:bitやサーボモーターとプラレールとかを組み合わせた授業をやったことがあります。Scratchで動きを制御するとか、本家のヘボコンより高度なことをやってましたけどね(笑)。
——運営する上で心がけていることはありますか?
回を追うごとに少しずつルールは変わっていますね。その場で起きた想定外のことをルールに反映していて、アジャイル的な面白さを感じています。例えば、過去に亀にザルをかぶせて出場した子どもがいて、その次の回から生き物はNGになったり(笑)。
ほかには、途中からルールブックに「判定がつかない場合は観客が決める」って一文を追加したんです。現場で起きたことを反映しながら、イベント自体も変化していくことを大事にしています。
勝ち負けが明確で勝者至上主義みたいな競技だったら、そんな雑な運用はできないと思います。ヘボコンは勝つことの価値をなるべく下げることを当初から考えているんです。優勝を狙うと最適解の実装ばかりになって作品のバリエーションが減っちゃうんですよね。
もちろん参加するからには勝つつもりで出てほしいんですけど、定番の安全策をとるんじゃなくて、自分なりのアイデアとか工夫で自分だけの勝ち方を狙ってほしいなと思っています。そのために、勝てなくても楽しいイベントであることを大事にしています。
——勝利の価値を下げるって、ゲームのルールとしてはめちゃくちゃですけど、それが普通に受け入れられているのが不思議であり面白いですよね。
本家の高専ロボコンにも「アイデア倒れ賞」っていうのがあって、アイデアは面白いけど、本番では実力を発揮できなかったチームに贈られるんです。元々、勝ち負けではない部分のアイデアとか面白さを評価する文脈は昔からあったんだと思います。
余談ですが3年前からその高専ロボコンの審査員として、「アイデア倒れ賞」の贈呈をさせてもらっています。こうやって本家に貢献できるようになったのはとても光栄ですね。パロディみたいなイベントだったのに(笑)
実はfabcrossも絡んでいた?『雑に作る』
——今年、fabcrossでもおなじみのギャル電きょうこさん、藤原麻里菜さんとの共著『雑に作る』が出版されました。この書籍が出版された経緯について聞かせてください。
Maker Faire Tokyo 2022の中で「雑にやることが世界を変えるかもしれない」というトークセッションをきょうこさん、藤原さん、阿部和広教授(青山学院大学)の4人で行った後、関係者用のグループチャットの中で話し足りなかったことのやりとりが、ずっと続いたんですね。それで、「これだけ話せるパッションがあるなら、本一冊できるんじゃないか」という話になって、実現した経緯があります。
実はその前から僕の中では構想はあって、fabcrossとDPZで開催した「頭の悪いメカ発表会」(2016年)の中で、「雑な工作のノウハウだけ集めて記事にしたい」って話をしたのが、ずっと頭の片隅に残ってて、それを実現できるチャンスが遂に来たって思ったんです。
——7年越しの夢がかなったわけですね。まさかfabcrossも関わっていたとは思いませんでした(笑)。書籍の感想もSNSに出始めていますよね。
一つ印象に残っているのが、「これは人間賛歌なのである」という感想です。
——確かにそうですよね。これまで否定的に捉えられがちだった概念を、この書籍では肯定しているわけですから。
人の営みという側面から工作を捉えると、そういう風に感じられるのかもしれないですね。実はへボコンを最初に開催したときも同じような感想を別の人にもらったことがあって、もしかしたら僕がやりたいのは「人間賛歌」であり、生きることの肯定なのかもしれないと、最近思うようになりました。
『雑に作る』に関して付け加えると、何か手を動かしていれば昨日より前には進んでいるので、完成度や能力にこだわらずに、やりたいことをやってほしいって思いますね。完成度は低いけど、一つ形にできたとか、少しずつできることが増えたといった小さなことを楽しんでほしいと思います。「賞を取りたい」とか、「バズりたい」という目標を持つのもいいけど、それだけを目指すと道のりが遠すぎるし、ウケたいあまり作風が変わったりもするので、そうじゃなくて小さな喜びを積み重ねることで、自分の引き出しを増やしてほしいって思いますね。
今は物心ついたときからSNSがある世代が中心ですけど、外の評価を気にせずに作ることも大事かなと思います。そういう意味で、『雑に作る』を参考にしてもらえるとうれしいですね。この本で書かれているマインドって、割とDPZそのものだなと思っています。あのサイトは素人が素人として、何かを体験したことを書くコンセプトです。専門家を目指さなくても、飾らずに素人として発信することにも価値があると思います。僕自身も永遠の素人であり続けたいですね。
——最後になりますけど、僕がfabcrossの立ち上げに関わった時に真っ先に頼ったのが石川さんでした。東京カルチャーカルチャーがお台場にあった頃、イベントの前に時間を作ってくれて、サイト運営のことから原稿料の相場まで包み隠さず話してくれたのが、本当にありがたかったですね。へボコンでどんどん情報をシェアしているくだりを聞いて、その頃を思い出しました。
あまり意識しているわけではないのですが、インターネット文化の中で育ったので、共有してみんなで育てていくという意識が強いのかもしれません。へボコンをオープンソース的に運用したいという話をしましたが、実際に改変が進んで海外で「ヘボレース」っていう大会が組まれたこともあったんですよ。障害物競走みたいなルールなんですけど(笑)。
自分がシェアした先で発展していく流れって面白いし、今後どうなっていくか楽しみが増えますよね。